やまと。 大和 (戦艦)

艦尾部分のブロックの左舷側の艦底-左舷にかけては艦の正中を超える非常に大きな破壊孔があり、この孔のためにそれより前側と後側では正中線がずれており破断状態に近い。

修理・改装後、(昭和19年)6月の、に参加した。
アメリカ軍のに大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、1番艦艦長大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している 7月29日より調査が開始され7月30日には大和の巨大な艦尾とスクリューが確認された
『戦艦大和いまだ沈まず 「大和」艦橋見張員』光人社、1983年 小板橋孝策『下士官たちの戦艦大和 戦艦大和下士官たちのレイテ海戦』光人社、1985年
他『戦艦「大和」開発物語 最強戦艦誕生に秘められたプロセス』光人社NF文庫、2009年8月 第八方面軍は海軍の潜水艦による輸送を依頼した
アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている 大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明している
8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した 4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた
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第一燃料がない さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった
主砲塔のうち最も保存状態が良いのは1番主砲塔である 建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた
その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である 大和の艦名はのの、あるいは日本の古称・別称・雅称に由来する
武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという 小林昌信『戦艦「大和」檣頭下に死す 世紀の大海戦・巨艦とともに燃えた二十歳の青春』• このため、0728にジョンストン、0725にホーエルに命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある
この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」 を掲げた 船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという
坊ノ岬沖海戦 [ ] 詳細は「」を参照 4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のためを発進させた 同年、「第二艦隊を東シナ海に遊弋させ、大和を目標として北上して来たアメリカ軍機動部隊を基地航空隊が叩く作戦」 三上作夫連合艦隊作戦参謀 に向け、大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:中将、参謀長:森下信衛少将)はへの回航を命じられ呉軍港を出港したが、米機動部隊接近の報を受けて空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、徳山沖で待機となった
『写真が語る伝説の戦艦「大和」』KKベストセラーズ、2006年 (平成21年)1月になって大和の母港であった 大和ミュージアム ・・・等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった
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